震災の備忘録

Facebook向けに書いたけど、わりときちんと書いたので、はてダにも残しておこうと思う。



たまに思い出して書いておかないと本当に忘れてしまいそうである。16年の月日は長い。



1995年1月。当時大学4年生。卒業研究が遅れていて焦っていたことを覚えている。


15 日の日曜日が成人の日だったため振替休日になっていた翌16日。貧乏学生だったためにそれまで持っていなかったビデオデッキを三宮まで買いに行った。うきうきした気分で阪神電車に乗って帰宅し、早速テレビにコードを繋いで電源を入れるところまで整えたところで、ビデオテープを買っていなかったことに気付いてがっかり。明日の朝にでも買ってきて試そうと、楽しみにして就寝。


自分の住まいは、阪神御影駅から徒歩5分ほどの2階建てアパート。1階と2階に3軒ずつの小さな古びた木造アパートで、自分は1階の一番道路側の部屋に住み、その奥は女子大生、さらにその奥はおばあさんが住んでいた。2階も学生や単身ばかりだったと記憶している。
当時、毎日明け方の決まった時間にアパート横の道路を通るトラックがあった。通るたびに道路に面した自分の部屋の窓が軽くビリビリと鳴るような勢いで、眠りつつもトラックが通り過ぎたことを感じることが多かった。



翌日、1月17日。火曜日。
その日も、深い眠りの中で、「ビリビリ」という音がした。あぁ、いつものトラックだ。
しかし、その音がなかなか鳴り止まない。やがて、地面の下からドンドンと突き上げるような振動。
熟睡しつつも何が起こったのかと体を起こそうとしたところ、窓のカーテンが仰向けに寝ている自分の顔の上にかぶさってきた。寝ているところに何故カーテンが下がってくるんだ?意味がわからない。窓ガラスが割れる音もする。顔に砂のようなものが降りかかってくる。
ようやく目が覚めて意識がハッキリする頃には振動はおさまっていた。顔にかかったカーテンや砂のようなものを手で払って上半身を起こしてみると、体がアパートの外に出ている。上を見上げると明るい月が見えた。


何が起こったんだ??布団から体を起こしただけなのに俺なんで外に出てるの?


視力の悪い目をこすって周りを見渡してみて、ようやく事態が把握できた。
アパートの2階部分が道路と反対側へ倒れるようにして1階を押し潰していたのだ。そして、窓ガラスのあった壁が自分の布団の上に倒れてきていたのである。倒れた際に窓ガラスは完全に割れていた。たまたま自分の寝ていた場所に倒れてきていたのが窓のところだったため、上半身を起こしたら体が外に出たのだ。


そんなことで自分は、全壊したアパートの1階から奇跡的に無傷で脱出できた。


数分して、近所の他の家からも続々と人が出てきた。自分は上下パジャマのみしかも裸足で道路に突っ立っていたためやがて急激に体が冷えてきた。自分の部屋のところに戻ってみたらかろうじて上下のジャージだけは引っ張り出せたのでそれを重ね着し、靴と靴下とスタジャンを一度も挨拶さえ交わしたことのない近所の方にお借りした。
部屋から取り出せた物は、あとは携帯ラジオだけ。眼鏡も、買ったばかりで使っていないビデオデッキも、何十冊も持っていた村上春樹の文庫本も、高校の卒業アルバムも、すべて瓦礫と化した。


6時を過ぎて少し空が明るくなってきて、近所の惨状が明らかになってきた。あちこちで家屋が倒壊している。
「あそこの家にご主人が下敷きになってるので手伝って」と近くの人に呼ばれる。行ってみると木造の一軒家が1階も2階も完全に押し潰されている。それでも中のご主人の元気な声が聞こえるらしい。
どこからともなく集まってきた男性約20人の中に混ざる。傍に転がっていた太い木材をてこのように瓦礫に突っ込んで屋根を持ち上げようとする。みんなが力を合わせて少し隙間ができる。もう少しだ。大きな余震が来る。しかし誰もその場を離れない。みんな助けようと必死だ。やがて、ご主人が瓦礫の中から這い出してきた。拍手。安堵。
そんな手助けを5軒ほど行なってまわったが、8時を過ぎたころからはもう、手のつけようがない家ばかりになる。レスキューも自衛隊も、さんざん呼びに行っているのにやって来てくれない。やがて周囲は絶望感に包まれていく。


昼頃。今ごろ京都の両親がテレビを見て心配しているかもしれない。電話で生存を伝えたい。
しかし通じている公衆電話がなかなか見つからない。ようやく見つけたら100人ほどの行列ができていた。1時間近くじっと並ぶ。ようやく自分の番。「哲也です。生きてるし。後ろにいっぱい並んでるからとりあえずこれで切るで。心配せんでいいから」。たぶんこの程度の電話だったと思う。あとで聞いたのだけれど、実家も震度5くらいあって棚から物が落ちたりした後片付けで必死だったらしいが、神戸もその程度の被害だと思っていたらしい。こっちは生きるか死ぬかだったんだよっ!…というのは今では語り草。


昼過ぎ。近くのマクドナルドで食材を配給してくれるという噂を聞いて貰いに行く。貰えたのはバンズ2食分。飲み水の無い状態で、パサパサのバンズを何の味付けもなく食べることがこれほど苦痛だとは思ってもみなかった。


午後。午前に知り合った近所の男性と街の様子を見に行くことに。その男性は30歳くらいのサラリーマンで、隣りのアパートに単身赴任で住んでいた。
東灘区、阪神御影駅周辺を歩く。悲惨だった。
火事はほとんど発生していなかったものの、古い木造住宅が軒並み倒壊している。
「そこのあんたたち、なんで助けてくれへんの!!」
女性の激しい声に振り向くと、2人の小さな子供を抱えて、完全に倒壊した家の前で地面に座り込んで半狂乱で泣き叫ぶ母親の姿があった。
なにもできなかった。無力だった。泣いた。


夕方。自分のアパートに戻ってくると、自衛隊の人たちがようやく来て、捜索活動をしているところだった。
隣りの部屋の女子学生と、その奥の部屋のおばあさんが、遺体で回収された。立ち会ったが、直視できなかった。
1階の住人は自分だけが生き残ったことになる。「生かされた」と、この時強く思った。


夜。避難所に指定された近くの高校の体育館へ。体育館はほぼ満員だった。
4箇所で石油ストーブが焚かれていたものの、板張りの床が冷たく体が芯から冷える。布団や毛布を持ち合わせていないために寒さが辛く、ここでは寝られそうにもない。
入り口にトラックが止まる。毛布の配給らしい。それがわかるや否や体育館の中の人々が一斉に入り口に殺到する。十分な枚数が配給されるとアナウンスされているにもかかわらず、我先に毛布に群がる。倒れる人。怒号。無秩序。被災者の群集心理とはこういうものである。
夜遅くになって、海辺のガスタンクが爆発するとこの辺りまで被害が及ぶ可能性があるということで、避難所の全員が山手の方へ退避することに。今から考えれば、2kmも離れたガスタンクが爆発したところで避難所まで被害が及ぶことは無かったと思う。これも後から聞いた話では、ガスタンクが爆発するというのは根拠の無い噂だったらしい。
ともかくも山手へ歩いて移動する途中、行動を共にしていた単身赴任の男性が、自分のアパートは軽量鉄骨で建物にヒビもなかったからおそらく大丈夫だろうということで、その方の部屋で一晩過ごさせていただくことにした。


翌日早朝。就寝中の男性をそのままに、部屋をお借りした御礼の文章と、少しでも役立つだろうと自分の携帯ラジオを残して、静かに部屋を出た。
そして、ひび割れてデコボコの国道2号線をひたすら東に歩くこと4時間、西宮北口まで復旧していた阪急電車に乗って実家に戻ったのである。



前日の救助活動の合間に、大家さんから「家が潰れてしまって申し訳ないがとりあえず」と実家へ帰る電車代などを頂いた際に、
「人生はいつ何が起こるかわからない。だから自分のやりたいことをやりなさい」
と言われたことが、今の自分を形作っているのかもしれない。



長々と書いてしまって今更だけれど、果たしてこの文章は誰かの役に立つのだろうか。
しばらく考えてみたけれど、直接役に立つことは無いかもしれない。
しかし、それで良い。これは自分の備忘録。体験した者が体験を風化させずに後世に伝えることは、体験した者にしかできないことだ。


それができる自分が、16年経った今を生きている。それだけのことだ。